日本語がなくなったら、日本人はいなくなるのかもしれない
先日、親戚の葬儀で久しぶりに親戚一同が集まった。
その中で少し不思議な話を聞いた。
いとこの家の子どもが、家ではずっと英語で生活しているらしい。学校もそういう方針のところに通っていて、日本で生まれ育っているけど、日本語はほとんど使わないという。
その結果、近所の子どもたちと会話ができないらしい。
さらに、祖父母ともほとんど話が通じず、ちょっとした会話すら成立しないらしくて、親戚のおじさんが「孫と話せん」と半分冗談、半分本気で怒っていた。
その話を聞いたとき、なんとも言えない違和感が残った。
国籍も見た目も日本人なのに、感覚としてはどこか“外から日本を見ている人”みたいな感じになるのかな、と。
ちょうどその流れで思い出したのが、教会と神社の感覚の違いだった。
ヨーロッパの教会に入ると、建物はきれいだし、空気も静かで、音楽も美しい。
でもどこかずっと「見学している」感じが抜けない。きれいな観光地に来たような感覚に近い。
一方で、神社やお寺に行くと、特に理由を説明できなくても、自然と落ち着く。鳥居をくぐって、手を洗って、鐘を鳴らして、賽銭を入れる。誰に教わったわけでもないのに、体が勝手に動く。
この差って何なんだろうと考えていたら、さっきの英語育ちの子の話と妙につながってきた。
もしかして、日本人の感覚って、血筋とか国籍よりも、もっと別のところで作られているんじゃないか。
それが「日本語」なんじゃないか、という気がしてきた。
日本語って、単に情報を伝えるための道具じゃなくて、空気を読むとか、遠慮するとか、言わないことで伝えるとか、そういう“感情の処理方法”そのものが組み込まれている言語だと思う。
敬語とか、主語を省略する文化とか、曖昧な言い回しとか。
あれ全部、思考の癖や人との距離感を自然に作っている。
だから、日本で生まれて日本に住んでいても、感情を英語で処理して育ったら、日本文化はどこかずっと「観察対象」になるのかもしれない。
教会を見ているときの自分と、神社にいるときの自分の差みたいに。
そう考えると、「日本語がなくなったら日本人はいなくなる」というのは、あながち大げさでもない気がする。
DNAや名字は残っても、「日本人っぽさ」は言語と一緒に消えていく。
逆に、海外で生まれ育っても、日本語だけで生活していれば、その人の感覚はかなり日本人になる気もする。
どこで生まれたかより、どの言語で安心してきたかの方が、よっぽど大きいのかもしれない。
結局のところ、自分がどこの国の人間かって、パスポートよりも、
「疲れたときに、どの言葉が頭に浮かぶか」で決まるんじゃないかと思う。
日本語で考えて、日本語で安心して、日本語で黙る。
たぶんそれだけで、人は勝手に“日本人”になっていくんだろう。